それでも「生物多様性」?
「生物多様性は、エコではありません、エゴなんですよ」と口火が切られた。都が主催する「東京都における生物多様性」という講演だった。
「私たちがなぜ海外旅行に行きたくなるんだと思います? 自分の住んでいる所と違う、別世界だからですよ。 それが全部同じになってご覧なさい。つまらないでしょう。どこに行っても同じ自然環境だったらつまらない。生物多様性とはあくまで人間視点です」だそうだ。
在来種と外来種の二元論的な視点に危うさを感じて勇んで向かった「東京都における生物多様性のあり方」の講演で、生物多様性とはエゴの産物である、などと聞こうとは。
基調講演ではなおもこう続けられた。
「外来種は殺虫剤で殺します。殺虫剤を使うことに賛成しない学者が多いけれど、やっぱり目的達成には必要ですよ。(一向に上がらない外来種の駆除に対し)成果を上げないとね」
来年から北海道で、農薬を使った外来種の駆除が行われるそうだ。
殺虫剤使用に躊躇する学者が多いということだけでも聞けて良かった。少なくとも、本来の生物多様性の意義も日本に存在している。
善悪二元論は、ある目的を達するためにつくられる構図だ。
是か非か、と問うて選ばせることで、「自由意思を尊重してもらった」と思わせる。
是か非か。戦わせるなかで時間稼ぎをして、ある目的を達する。
外来種か在来種か。
そこで動く人たちにはすでに利権が生じ、異を唱える識者に対するバッシングがある。 「生物多様性」は多様な見解を受け容れられないらしい。
なんだ・・・。闇に突き当たった。ツマラナイ。
日本の八百万の神は、どんないのちも寿ぐだろうに。
玉川上水では、アカミミガメの親子が甲羅干しをしている。
桜の香りのする川に、チビっ子のアカミミガメが飛び込んだ。
環境汚染の進むなかで生き延びてくれたいのちだ。
豊かな生態系の創造に向けて、より真摯な検討をしてはいかがか。
思考の防腐剤~「井の頭かいぼり報告会」を傍聴して➂~
安定と不安定。
コスメで問題になるのはここだ。
安定性があります、というのは、どんな状況にあってもコスメの内容物が変化しないこと。これには安定させる物質を添加しなければならない。最低限の防腐剤は入れる、というのが、ナチュラルコスメ、オーガニックコスメ、自然派コスメを含む、多くのコスメだ。安定性を確保しなければ市販できないから、流通なども含めて注意深くコスメを選ばなければ、まず99%こちらのタイプのコスメを手にする。
一方で、不安定、ということがある。コスメが不安定なんて、製品としては欠陥だ。ところがもとよりいのちは不安定なもの。だからこそ奇跡をもたらす。美しさ、若さの発現もここからだ。
防腐剤を入れていない不安定なコスメは、いのちに共鳴し、魔法を起こす。しかし、これは誰にも彼にも買ってもらうわけにはいかない。「(湿気の高い)洗面所にずっと置きっぱなしにしていたらカビちゃった。これは不良品です(弁償してください)」と、自分の無知を省みることもせずメーカーに苦情を言い募る人が簡単に入手してはマズイのである。
コスメに安定性がある=腐らない。ということは、いのちの波動を帯びていないことになる。
コスメが不安定である=腐るかもしれない、醸(かも)されるかもしれない。どちらにせよ変化する。いのちの波動は絶えず動く。
私たち人間は生命体である。生命体を癒すのは、やはりいのちあるものでしかない。
安定と不安定は、コスメばかりに見られる現象ではない。
「昔からの、いわば伝統ですから」とか、「数値ではこう出ています」とか、「学校ではこう習った」、「◎◎という権威者がこう仰せなので」とかいう言葉は、安定を求める思考から発生している。
不安定ないまをみつめて判断できないから、自分の感性で決められないから、安定を求めて、伝統や数値や知識、権力などに頼る。安定にすがることを「思考の防腐剤」といおう。
思考の防腐剤は中毒性がある。一時は楽であるので、一度使うとまた使う。ところがそれでは現場の動体視力、感性は養えない。自分のいのちを輝かせることにはならない。いまを重んじられないから、過去にすがる。分析という過去、他人がこう言ったという過去に。
一方で、不安定は、思考の防腐剤を入れないために、事故が起きる可能性もある。失敗もつきまとう。安定にすがる人が多い現場なら反感を買うかもしれない。しかし、不安定ないまとつき合うには、自分のエネルギーを高めるしかないから、不安定とつき合ううちに、いつしかどんなことにでもタフに対応できるしなやかな強さが身につく。
安定と不安定は対ではない。まったくの異質だ。
安定の思考には、安定か不安定か、の二者択一しか選択肢がない。一方、不安定の思考は多様性を認めるちからがある。いのちは予想もつかない展開をする可能性をはらむ。
「井の頭かいぼり隊」のさわやかな活動に水を差してしまいそうだが、かいぼりの、在来種と外来種を選別する視点にも、いまをみつめる動体視力が欠けてはいないか、という懸念を抱いている。
集団になり、予算などがついて広く知られると、思考停止しやすい。思考の防腐剤が施された状態になる。
単純に外来種が悪、在来種が善、という二元論に安定せず、どこかでそれを疑う思考をとどめてほしい。
その横顔~『井の頭かいぼり報告会』を傍聴して②~
かつて、日本には奥山と鎮守の森と、里山があった。
「日本人は“鎮守の森”といい、潜在自然植生の豊かな生態系を遺す知恵があった」とは、横浜国立大学名誉教授の植樹で著名な宮脇昭さん。鎮守の森は、合祀による神社や寺、仏閣の破壊(*)とともにその多くを荒らされ、前後して奥山には人の手が入り、幽玄の奥山は消滅した。
奥山が消滅する様は、宮崎駿さんの『もののけ姫』で描かれている。
「奥山に足を踏み入れるなんて、そんなおっかねえこと。できねえ」と奥山に足を踏み入れることをためらう者は、「ただの迷信だ。それはとても科学的とはいえない発想なんだ」と背中を押された。
奥山は、豊かな自然環境と人類の共生にとって重要な鍵であり、たいへん科学的なことである。いまならばそう主張する識者はいるし、それを理解し支持する人々は多いだろう。
しかし当時、高く掲げられた「科学的」という錦の御旗には、豊かな自然環境との共生という概念はない。あるのは、地球の自然をいかに搾取するか、のみ。またそれを支持する人々が大半だった。
自然なんてそこいらにあるじゃねえか。おらは東京さ行ってサラリーマンになるだ。
江戸時代までは、奥山や鎮守の森などの豊かな生態系を継続する禁忌の地がある上で、里山があったのだ。
里山は、人間が自然を活用する場所。奥山は、人間以外の種が生きる場所。
里山だけではいかにも危うい。人間が介入しない自然が必要だ。そう考える先見の明があった。豊かな自然がなければ、やがて人間も破滅する。そういう当たり前のことを日々の生活に落とし込む叡智があった。
現代の日本はどうか。私たちは暗愚なのか。
奥山はほぼない。人手の必要な里山も壊滅状態。こうなってからやっと、私たちは自然は大切だ、と理解し始めている。
サラリーマンなんて虚しいだけ。所詮、滅私奉公を強いられるだけだ。嗚呼、田舎で鳥のさえずりを聞きながら、畑でも耕して、みんな仲良く暮らせたら。と、宮沢賢治的な境地に至る人もいる。
搾取のピラミッド構造を変えないままの「文明開化」は、野良着をスタイリッシュなスーツに変えただけ。その本質は変わらない。ピラミッド構造のトップは当然それを熟知している。していながら継続を望むのだ。
一方で、ピラミッド構造の終焉を311に見出した人は多い。スタイリッシュなスーツを堪能し尽くした人、ピラミッド構造上部の恩恵を味わった上で本質的な幸せを求める人、もとより感性が豊かな人は、人間だけが勝ち組の世界の結末を311に見た。
ただ受け身で、暗記教育に安寧して、自分以外の存在に責任を求めるような、他人の思考で生きるのを止めたのだ。みずから思索し、行動する人が発現している。
豊かな自然と豊かな人間生活。果たして、二つの共存共栄は可能なのか。
いま私たちは新たな文明への模索のさなかにいる。
奥山があっての里山であるが、里山の実現さえ危ういいま、奥山の復活には相当の意志と覚悟が必要だ。まずは里山を復活させるのはどうか。
新しい文明の真っ白な波頭が、井の頭恩賜公園で立っている。
1月28日開催の『井の頭池かいぼり報告会』は、たいへんすがすがしいものだった。
公的な会にありがちな、挨拶ばかりが得手の傀儡やその取り巻きが仕切る会ではなかったのだ。
実際に井の頭池でかいぼりを行う男性が司会をし、やはり自ら現場で泥にまみれて作業を行う思慮深い女性が「イノガシラフラスコ」の存在をアピール。NPOの若者たちは、みずみずしく率直な視点でいくつもの興味深い報告をした。
出色は、「井の頭かんさつ会」の田中利秋さんだ。彼が井の頭恩賜公園の池から大量の自転車を吐き出させた潮流の源ではないか、と愚考する。
彼は「2000年ごろから井の頭池の水鳥を詳しく観察するようになりました。間もなく二つの大きな問題に気づきます」(冊子『井の頭池かいぼり報告会資料集~未来へつなごう、湧水の池』より)とつづっている。
人間がカモなどにエサをあげることの弊害。人間が飼っていた外来種を池に放したことによる弊害。
田中さんは、大きくその二つの弊害に気づき、手弁当でその弊害の解決を図る。
2017年、私はその結果を目の当たりにした。
「私はかいぼりをしたくなかったですよ。かいぼりは、外来種をなくすことができるけれど、在来種にも大きな負担になる。それでも(かいぼり)に踏み切らざるをえなかった」という彼の肉声にふれられただけでも、この会に足を運ぶ価値はあった。
かいぼりへの見解が一色に染め上げられていない。言論統制されていない。井の頭公園のかいぼりは、それぞれが意志を抱き、多種多様な意見を明らかにしながら、なんとか調和して、試行錯誤をしつつ、とりあえずの妥協点を見出して実行されたものなのだ。
まずは里山の復活を。
私たちの文明にとってその気づきが遅かったのか、どうか。どちらにせよ、思索し行動しなければなにも始まらない。
文明の創造の源流は、こころある人々のきよらかな行動から生まれる。多種多様な個性の集まりにはさわやかな風が吹く。
流行っているから、誰それに頼まれているから、仕事だから、カッコいいから。もしそれだけならできない活動だからなのかもしれない。
その横顔の一つひとつが美しい。いまならそれを目のあたりにできる。それはイノガシラフラスコと同じくらい奇跡的なものだ。
ふっと消えてしまわないように見守りたい。
(*)合祀・・・かつて神社や寺は民草のこころの拠り所だった。神主さんや和尚さんは村の良心を育む役割を担い、冠婚葬祭ばかりか、経済や環境、教育など村人の生活全般の面倒をみる傾向にあった。それでは困る。民草を駆り立て、活用する必要があった「国」は、その仕組みを破壊することにした。神社や寺を国の統括下に置き、毛細血管のようにはりめぐらされた知恵とやさしさの人間のつながりを潰し、新しく国が認めるものにすげ替えた。この推進にあたり、神社や寺が育んだ檜など、価値の高い木材もろとも接収させ、推進に加担する者たちに分配した。南方熊楠は、この合祀による鎮守の森の破壊で豊かな生態系が失われると叫び、投獄されている。
自然観は心象風景を如実に表す (『井の頭池かいぼり報告会』を傍聴して①)
美しい。
すみずみまで人の手が入った、整然とした英国の庭園。目の前に広がる洗練された箱庭に、彼のこころは震えた。
それに比べて、我が国の庭園はどうか。
野趣溢れる、といったら聞こえはいいが、所詮自然の模倣ではないか。おまけに日本の鬱蒼とした森のあの薄暗さはどうだ? イギリスのこの素晴らしい田園風景よ。
日本から英国にやってきたある男の心象風景である。
日本ではエリートである男だが、英国では勝手が違う。
英語もろくに喋れない、黄色い、貧相な、野蛮な異教徒。
社交上の作法に則りつつ本音を表明する。英国の上流階級がそれをしないわけがない。
英国人の白眼視に遭い、彼はおそらく生涯初めての強烈な劣等感に苛まれた。
傷心に羊が草を食む田園風景が深く染み入る。
彼は帰国し、劣等感の代償を求めた。
「欧米ではこうです」と述べることで優越感を得ようとし、その目論見は成功した。
私は日本にとどまるだけではなく、世界を見てきたんですよ。海外に行けるほど優秀な私の見識をご覧なさい。私は世界規模の視座でものを言っているのです…云々。
しまいには日本人の自然観を覆そうと、英国庭園を日本で再現した。
日本庭園ではなく英国庭園。自分が嘲笑されたように、自分も母国の者を嘲笑する。日本固有の自然を否定することがそのまま彼のアイデンティティの確立となった。
自然観は、心象風景を如実に表す。
1月28日に開催された『井の頭池かいぼり報告会』を傍聴し、その思いを強くした。
ファーブル先生の講義
花は、おしべとめしべによる受粉でいのちをつなぐ。
ファーブル先生が、女性たちに花の受粉の講義をした。
「女性たちは科学を知らなすぎる」ファーブル先生はそう思っていたから、分かりやすく本質を伝えた。
一神教の支配を疑わない社会において、女性は虐げられるばかりの存在だった。その女性たちが、いのちの遺伝においては男性と同等の、もしかしたらより重い存在だということを知られることは、マズイことだ。
ファーブル先生は、そのマズさを承知しながら講義を続けた。べつにファーブル先生は政治的に反旗を翻したわけではない。ただ本物の学者だったから、謙虚さを持ち合わせていただけだ。
自然界をみつめると、人間が知らないことはたくさんあると実感する。
卑小な自分が知っているものを出し惜しみして人間界の仲間に伝えないなんてケチなことだ。バカらしい。
ファーブル先生の講義は、女性たちから絶大な支持を得た。
彼女らは、これまで自分たちが疑わずに飲み込んでいた世界とは違う世界を見出した。知識とは、コムズカシイ学者の専有物ではなく、ただ男たちの自分はエライんだぞと鼓舞する道具でもなく、自分たちの存在を別の局面から理解する手段なのだ、と腑に落した。
知識が感性に迫った時、初めて人は知識を自分の血肉にする。
彼女らは、威張り散らす夫や役人の傍若無人な振る舞いに、それが許される社会に息苦しさを覚えていたものの、それを突破しようなんて思いも寄らなかった。
そんな「はしたないこと」はできませんわ。
しかし一方で、彼女らは、自分の精神を豊かにする実感を得、ファーブル先生の講義に耳を傾けた。
自分たちのからだを、営々と続く生物の働きとして理解する。彼女らにとって、おそらく生涯初めてのの美酒だったろう。いかにもおいしかったに違いない。
すると、かねてよりファーブル先生の人気を妬んでいた者が「あいつは破廉恥なことを女性たちに教えている」と当局に告げ口をした。
女性から人気を博したファーブル先生は、教壇を追われた。
「あー昔のフランスって、いやあね」なんて言っている場合ではない。
その図式は、いまの日本においても生きている。体裁が変わっているだけだ。
たとえばコスメである。
無添加って、なにが無添加? 要は肌に悪いものが入ってないことでしょ。
オーガニックってなに? 有機栽培の作物のことでしょ。
気をつけなければ、その思考に止まったまま日常が過ぎていく。
私たちは、メーカーの、情報の奴隷となっていやしないか。 なにかそれ以上踏み込んではいけないことは明言されないままなのではないか。
時代の空気を吸って生きている私たち。換気をしようという意志が空気を刷新する。
現代日本にもファーブル先生はいる。けれど、稀少だ。
無添加コスメ
「無添加です」というコピーが肌に良いコスメの代名詞となった時期があった。
いまは「オーガニックです」にとって換わっている。
いったいそれがどんな意味を持つのか。答えられる人は案外少ない。
無添加ってなにか。
「無添加です」というコピーが肌に良いコスメの代名詞となった時期があった。いまは「オーガニックです」にとって換わっている。言葉ばかりが一人歩きをして、いったいそれがどんな意味を持つのか、答えられる人は案外少ない。ネットでちらほらと説明されている方もいるのだが、多くの女性、コスメを売っている人やコスメの販促物を制作している人でさえも、言葉の意味はいま一つ分かっていない。
とても大切なことなのに。自分をいたわらない女性は意外に多い。コスメは肌につけるものだからこそ、大切に考えたい。
もはや形骸化した、「無添加コスメ」というコピー。されど「無添加コスメ」を世に初めて生み出したコスメは、現在の「オーガニックコスメ」の潮流の源の一つだ。
2001年まで、「無添加」は、内実のあるコピーだった。良心的なコスメとして高らかに宣言する価値があり、敢えて選ぶ価値もあった。 F社は日本のコスメの質を上げた素晴らしいコスメメーカーだ。
2001年以前、コスメの製品の箱・裏面には、肌に悪影響をもたらす可能性がある108の成分の表示義務があった。表示しなくてはいけない成分は添加していません、「無添加」です。だから自然派。
化粧品を使う女性への愛があふる素晴らしいコスメだ。女性たちから圧倒的な支持を得た。一方で、他のコスメメーカーには明らかな挑戦状をたたきつける形となった。
他のコスメメーカーにしてみると面白くない。彼らはそもそも表示義務があるとされた指定成分自体を疑問視している。「いやいや。パラベンは、とても安定している成分ですよ。パラベンは微量で防腐効果に優れている。かえって、フェノキシエタノールの方が多量に使わなければいけないから、肌には良くないはないです」という言い分だ。
表示指定成分無添加と名乗りを上げるコスメメーカーも、パラベンは安全なものですよという見解のコスメメーカーも、良心的だ。肌のことをよく考えてくれている。
さて。2001年以降、コスメの裏面には指定する102の成分以外も全部表示してくださいね、という薬事法が施行された。
アトピー性皮膚炎の多発など肌トラブルが多発。102以外でも、肌トラブルを誘発する危険性があるのではないか。という声が大きくなり、コスメにおける薬事法の歴史的な刷新が行われた。
コスメの裏面を全部表示する? 困ったなあ。と頭を抱えたのは、肌のことをじつはマジメに考えていなかったコスメメーカー。「水(しかもただの精製水)と香料と防腐剤。これだけですよ。あとはイメージでね」とは、とある大手のコスメメーカー。自然派で有名だった。 利益率が驚くほど良く、さながら濡れ手に粟。それが経営のベースとなっているのだから頭を抱えるのは当然だ。
全成分表示をすることで、コスメの処方が露わになる。これはマズイ。どうする? ①処方を大幅に変える、②全成分を表示しなくてもいい医薬部外品にする(後の2006年には医薬部外品も全成分表示義務が課せられる)、➂開き直る。①と②はお金がかかる。②は、全成分表示を免れるものの、医薬部外品とするだけの効能があると認可された成分を入れなくてはいけないから、やはり処方を変えなくてはいけない。➂という手もある。女性は化粧品に対してそんなにマジメに考えてはいない、裏面表示など見ないだろう。という仮説の元に売る。結果として、対面販売で、信用で売っているコスメメーカーは➂でも良かった。ただ、若手の女性は、裏面表示が前提のクオリティの高いコスメを知っているため、若手の取り込みには失敗している。
肌のことをマジメに考えています、という美辞麗句をパッケージングするのがコスメメーカーの仕事の一つである。そのパッケージングにはいろいろと工夫が凝らされていて楽しいけれど、やはり、それを楽しみながらも真価を問いたい。
余談ながら。化粧品業界は新規参入が後を絶たず、また撤退も同じくらいある。 「化粧品をつくると儲かる」という神話と、「なんだか楽しそう」という雰囲気に憧れるのかもしれないが、現実は甘くない。
コスメメーカーにとっては甘くない現実は、コスメを使う側にとって吉祥だ。いま、私たちは、先達の心ある行動の果実を手にしている。
昭和52年、「黒皮膚裁判」(大阪化粧品被害賠償額請求訴訟)が起こった。
劣悪な化粧品で肌を真っ黒にするなど酷い肌トラブルに見舞われた女性たちが、大手コスメメーカー相手に裁判を起こしたのだ。彼女らは、メイクに使われるタール系色素や粗悪な油脂によって、たとえば「おばけみたいな顔」と夫になじられるような、再起が難しい深刻な肌トラブルに陥った。
日本は、明治維新以降、男尊女卑の傾向を強めた。戦後の高度経済成長にあっても、いや、いまでもその傾向は強い。「女は従順が金」という風潮は根強く、昭和52年といえば、女は泣き寝入りしておけ、という空気が支配的であり、立件には、かなりの勇気と忍耐力が必要だった。
美しくなるために求めたコスメが、肌を外に出られないほど酷い状態にした。どんなに苦しく、切なかったことだろう。その状態で、衆目の関心を集めることに躊躇があったことも想像に難くない。
無添加コスメは、そういった流れのなかで生まれた。
2001年以降、「無添加コスメ」という言葉は形骸化したけれど、コスメの歴史における金字塔である。
無関係
きれいになりたいという本音に無関係なのは、大手メーカーや、そことの癒着があるメディアだけではない。
「合成化学物質フリー、すべて有機栽培の原材料を使っています。全成分に表示義務のないキャリーオーバーもありません。動物実験はもちろん反対です…」
無機質にただスペックを繰り返す、「オーガニックコスメ」というラベルを貼っただけのコスメ。それを世に輩出する自称オーガニックコスメメーカーだ。そこにはメーカーとしての有機的な解決、いのちある未来への施策はない。あるのは拝金主義のみ。
オーガニックコスメって高いけれど、きれいになりそう。幸せになりそう。
というイメージを借りている分だけ、性質(たち)が悪い。彼ら彼女らが繰り返し貼り付けるラベルには、むろん既存のコスメメーカーへのアンチテーゼが含まれている。戦後、悲しみと貧しさの瓦礫から立ち上がる女性たちに夢を与え続けた、老舗のコスメメーカーも餌食だ。
自称オーガニックコスメメーカーは、既存のコスメメーカーの資産も、有機的にいのちをつなごうとするコスメメーカーの希望も、同時にかすめとる。
オーガニックコスメって高いけれど、きれいになりそう。幸せになりそう。
値段が高いのは、大量生産ができないから。化粧品原料メーカーに頼らずに、自分たちで原材料からつくっているから。いのちある植物をいのちあるままに、いのちある女性たちに届けたいから。
そこまでのリスクを背負わずして、「オーガニックコスメ」のラベルを貼っているまがいものは多く、そのリスクを背負っている本物は数えるほど。その少なさに驚く。
「オーガニックコスメって高いけれど、きれいになりそう。幸せになりそう」というイメージだけで踊らずに、しっかり目を見開いてコスメを選んで、使おう。肌が癒されるばかりか、こころもその奥深くも癒されてゆくコスメは確かにある。