聖なるコスメ、聖なる日常

美しくなるアイテム、コスメ。コスメから森羅万象をみつめます。

コスメの光と影

 

 このブログを読む数少ない方から、「じゃあどんなコスメがお勧めなの」と訊ねられる。「次こそは、具体的なコスメの名前を出さなくちゃ。その触感(テクスチャ)も書いてね」とも。

 そういうリクエストは、とてもうれしい。 生業では日々それをやっている。

 ただ、このブログで、お勧めとして商品名は出さない。 それは多くのサイトでやっているし、「そんなことには意味がない」なんて言っておきながら、「(えへへ)でね、じつはこれがいいんですよ」とばかりに商品を紹介してしまっては、言葉が軽くなる。

 

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 映画、テレビ、雑誌、ネット。もちろん情報はコントロールされている。

 巧妙に都合の悪いことは隠されながら、美しい言葉が羅列されているコスメの世界。 この世界では言葉さえもメイクが必要だ。 時には、有機的な、多くの種が共存共栄する柔らかな土から生えた野生の言葉があっていい。たまには、「なんか言いたいこと言っているな、しかもコスメでPRなし!?」というブログが、この世界の片隅にあっていい。

 たとえば、界面活性剤フリー、オイルフリー。簡単な洗顔でOKとするファンデーション。 あれ? ちょっと待って。その微細な粒子、本当に落ちているのだろうか。 落ちきらずに肌トラブルの原因になってはいないか。 UVケアで、紫外線吸収剤、紫外線散乱剤よりベターとされる酸化チタンは、肌にのせていいのか、ということは、再考したい。 リスクを承知で肌荒れを隠したい、日焼けを避けたい時は仕方ないだろうが。

  

 2011年3月11日の原発事故以降、「御用学者」という言葉が飛び出し、メディアへの見方に変化が生まれた。 資本主義社会における学者は、既得権益にへいこらしなくてはならないという痴態が露わになった。 ニュース番組は、テレビ局の上の意向なしに報道などできない。 「国民のために」と善意からの発言を繰り返すキャスターは降板させられてしまう。 かくしていまは提灯持ちがうまい芸人にキャスターという役が振り分けられている。近頃とみにそういうことを目のあたりにする私たちは、幸運なのかもしれない。 薄々は勘付いていたけれど、直視したくなかった現実があからさまだ。

 おかげで、「テレビはあんまり観ないんです」と言ってももう変人扱いされない世の中となった。新聞もどんなバイアスがかかっているのかを熟知しながら読まないと、情報のデトックスに時間がかかるし、 ネットの検索上位にひっかかるものを真に受けてはマズイ。そう気をつける人が増えた。 増えたといっても大部分ではないから、先に気づいたなら、より先を見据えられる。

 

 時代の波は、私たちに情報の取捨選択への洗練をより促す。

 

 ネットで、コスメを売っているサイトばかりから情報を取っていては、「コスメを買う」だけで終わる。「コスメを選ぶ人」だけで終わってしまうのはツマラナイ。 ①コスメを時には使うけれど、②手作りという選択がある。さらにいえば➂いらない時だってある。のように、もっともっと奥座敷に向かわなければ、生命力を謳歌することを忘れて、ただ物を消費するだけの存在になってしまう。

 

 森羅万象に陰陽があるとするなら、コスメにも光の当たる点とそうではない点がある。

 行政と司法、立法の三権分立さえ危うい2017年現在の日本では、報道機関の自立はほぼない。やはりコスメもジャーナリスティックには切れない事情があるのだが、 それがコスメ産業全体にとって良いとは思えない。コスメの露悪もされてはいないが、コスメの奥行きを多くの女性に示せてもいない。

 コスメメーカーのなかには、自分たちの不利益となることも誠実に伝えて、使い手の知識をまず深めてもらいたいと考える社長や開発者がいる。ただ、メーカーはあくまでメーカーだ。物を売るという直接的な利益がある。その利益は、コスメの真なる価値を伝えるには呪いとなる。

 食べて消化し排泄するのとはわけが違う、肌につけるコスメには、もっと大きな価値がある。その価値は、コスメメーカーでさえ気づいていないし、到底言えないことだ。

 

 コスメはコスモ。 化粧品は、自分の内なる宇宙につながる一つの手段である。 内なる宇宙は果て無く続き、やがては外なる宇宙へと広がる。 その手段を、大枚をはたきながら、失いたくはない。

 

 かつては「自然派」がうたい文句だった。とある筋に言わせると、人の手で合成してつくった化学成分も、自然のものから抽出したから「自然派」となる。 いまは「オーガニック」がうたい文句である。有機認証が取れた植物から抽出した成分です、ということでオーガニック。 ええ?いったいなにがオーガニックなのだろうか。 フタを開ければどこの国の有機認証の基準も甘いし、その植物をどうやって抽出したかも不明である。99%抽出した媒体液の危険成分は残留していない、そういう証拠があるといわれても、肌に危険とされる合成溶剤で抽出した植物を敬遠したい女性は多いだろう。もっというと、成分のなかの、下位の配合にある成分がオーガニックだとしたら、多くを占めるほかの成分はどうなのかという疑問も湧く。 

 まあそれでも。「オーガニックといってはいけない!」と言論統制されているよりはましだ。メーカー側の表現に惑うなら非があるのは自分の方。面白がってコスメは選びたい。実際、コスメの売り文句にはツッコミどころが満載だ。

 現実世界には多くのトラップが潜み、そのありかと仕組みを知るほどに、現実は退屈とはほど遠いと実感する。無知と未経験の代償を払いながら、私たちは生きている。

  光だけを見ては誤る。とはいえ、未熟なうちは、闇はただただ怖い。闇を愉しむには眼力と直観力を養わなくては。

 

 メディアも、科学者も、メーカーも、言っていることに一理ある。 ではその一理はどこにあるのか。どんな事実を隠して、その理を説いているのか。 そもそも自分はどんな理を求めているのか。 「いまきれいでさえいたらいい」「いま気持ち良ければそれで」と考える理だってある。刹那の美しさと、永遠の美しさ。選ぶ自由が私たちにはあり、私たちの周りには、さまざまに時を重ねる大人の女性があまたいる。望む望まないに関わらず、彼女らが歩んだ跡を私たちは継ぐ。

 さて私たちは、後続になにを渡してあげられるだろう。

 たとえ自分とは異なる意見であっても、多様な発言を自由にできる素地くらいは渡したい。