聖なるコスメ、聖なる日常

美しくなるアイテム、コスメ。コスメから森羅万象をみつめます。

肌と精神 ②

 酷い肌トラブルが治った三人目の話になると、やはり1998年までさかのぼる。

 

 この前のブログで、師匠とライターの女性が、アトピー性皮膚炎を食事で治そうという記事にとりかかったところ、医師から急性アトピー性皮膚炎という診断が下される酷い症状になったとつづった。

 

 私はそれがうらやましかった。

 

 短期的に見ると、アトピー性皮膚炎は状態が悪いもの、とみなされる。しかし、違う物差しに持ち替えれば、皮膚から毒が出ている、内臓をきれいにしている状態ともとれる。

 私は、解毒したかった。

 

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 師匠曰く、「私の小さい頃は、朝にパンを食べることがステイタス、みたいな空気があったのよ。和食よりも洋食の方がもてはやされていたしね」。いまならば愛する我が子だからこそ、玄米おにぎりとお味噌汁を出すだろう。ところが当時、師匠の子ども時分の高度経済成長期には、それは古臭い、昔ながらのまずしい食事と映った。ハンバーグやビフテキに野菜のバターソテーを添え、バターロールを出す方が、庶民とは違うのよ、という空気を醸したのだ。ハード系で自家発酵のパンなど日本では普及していない頃で、給食のクオリティも、いまの子どもたちとは比較にならない。

 さらに彼女は、化粧品で肌が真っ黒になってしまったことがある。いわゆる黒皮病の被害者だったからこそ、オーガニックコスメという概念をこの日本で花開かせた。

 

 片や、ライターの女性は、ケーキバイキングが大好きだった。多くの場合、ケーキバイキングに行くと、ふつうにケーキセットを頼んだ方が良かった、胸やけしたという感想になるものだが、大の甘党は違う。ケーキセットの物足りなさを、ケーキバイキングが充足する。

 

 日々の消化で出しきれなかったものが毒。それが蓄積して、しまいには皮膚に症状が現れる。東洋医学の心得のある人はこれを「コップに溢れた水」とも表現する。

 

 私にも蓄積された毒がある。

 

 学生時代から山本益弘氏の本をガイドに食べ歩きをし、フランスでレストランの現場で修行した女性の料理教室などに通い、23歳では「ソムリエの資格など取らないと約束してほしい(*)と高名なワインのバイヤーさんから手ほどきを受け、高じてフレンチレストランの企画として就職。実力派のソムリエたちとそこで実力を磨くソムリエたちがいる現場でサービスも勤めた。私の一人暮らしのアパートのキッチンでは、フランス帰りのシェフや、シェフ見習いたちが腕をふるった。

 そのような現場にいると「休みにあそこ(あるレストラン)に行ってきたんですよ」なんてスーシェフに気軽に言おうものなら、「魚のソースはなにでできてた?」と聞かれる。答えられないと、「行く価値ねえーな」と一蹴される。無事になんとか答えられると「どんな味がした?傲慢な味はしなかったか(そのレストランのシェフは、才に走り過ぎて仲間たちから厭われていた。もちろん嫉妬まじりだ)」と味覚の向こう側の感触さえ聞かれる。ありきたりの「心のこもった味が」なんて言おうものなら「ふん、どっかのテレビとか雑誌で言うようなことだ。お前の答えはないのか」とまた一蹴。

 一流の料理人、サービスを目指す現場だから、たとえ手取りが16万円のペーペーでも、銀座の一流レストランで、ランチのコースとそれに合わせたワインを注文する。明らかに同業者と分かるから、店側もそれなりの対応をする。ソムリエの男性が、料理とワインを懇切丁寧に説明してくれたり、食後酒をご馳走してくれたり。身銭を切って席についている二十代前半の女性たちが皆、一様に真剣な目つきでその話に聞き入り、お皿の上で繊細な美味しさを放つ料理、ワイングラスに注がれたワインの輝きを味わう。

 社長や有名人の腕にまきつきながら来店する女性の横顔よりも、一流になりたいと時間もお金も削って研鑽する若い女性のすっぴん、同僚たちのそれが、私には美しく映った。

 転職してからも、私の過去にそのような経験があり、いまだにおいしいものが好き!ということを知る方々から美味しいものをご馳走になっていたし、仲間や友人とも会食の機会は多い。かと思えば、朝はコンビニで手巻き寿司の納豆と冷やし中華、スイーツを買って、新聞や雑誌、メールなどに目を通していた。

 

 ということで、私の食歴は、いまだに私にとって輝かしいものだ。ところが、品川の食養内科で診てもらった時、こう断言される。

 「あなたは、もう一生分のフレンチのコースを食べました。いまのように、週に数回はレストランに行くなんてとんでもない。それにお酒は、一週間に一度、お猪口一杯程度でいい。明らかに飲み過ぎです」。

 

 物事には、ハレとケというものがある。祭りはハレの場、ふだんの日はケの場。美食はハレの場の、味覚の芸術。ハレの食事ばかりして、ケの食事には手を抜く。質の良い材料でつくられているからといって、栄養の摂り過ぎである。食べ過ぎという毒だ。

 

 毒が溜まったことが生理痛の原因ではないか…? 解毒すれば、この生理痛は解消するのではないか。

 

 という背景から二人に羨望を抱いた私は、「よし!」とまずは生活に使うものを変えた。

 食事を変えるには、予定の入れ方や、ライフスタイルの変更、周囲の理解が必要で、早急にはできなかった。後々気づくことになるのは、食事内容をすぐに変えられない根本原因が、自分がなにを食べて満足し、おいしいと感じるかという嗜好だということだ。二人ほどのっぴきならないアトピー性皮膚炎にでもならない限り、食生活の急激な変更などできようもない。

 それでも、外食は自然食を志向したものにし、朝のご飯やスイーツは自然食のお店で買ったものにした。

 

 さて、私は手始めに買い置きしていた合成界面活性剤をすべて捨てた。

 台所、お風呂場、トイレ、窓など場所ごとにあった掃除用品。シャンプー、リンス、ボディソープ、歯磨き粉、香水、メイクアップグッズ、基礎化粧品などで、合成界面活性剤が使われているもの、また、合成着色料、合成防腐剤など、いわゆる「オーガニックコスメ」でNGが出ている、出そうな物はすべて。 自分が悪いと思っているものを、誰かにあげるわけにはいかない。とにかく捨てた。もちろん食べ物も、それまで「少しずつ変えよう」としていたものを根こそぎ変えた。 冷蔵庫やガスコンロの下にあった調味料や小麦粉、乾物、お菓子。買い置きしていたもの、まだ残っているもの。 すべてを捨てて、変えた。

 

 そのような妻を、新婚の夫は苦々しくみつめた。

 

 私たち夫婦は二人とも、小さな広告代理店に勤めていた。職場結婚だ。

 私は、環境やオーガニックコスメなどの企画を社内で進めたかったが、社長の理解が得られず、揉めていた。その会社の取締役である夫は、社長に追随する形をとった。

 地球との共生やオーガニックコスメのことは生き方に及ぶ。仕事だと切り離して考えたくない。二人の生活を始めてから雷に打たれたように価値観を転換した私に、夫は戸惑った。

 

 新興宗教にはまったばかりの信者のように、私は熱に浮かされていた。直観して行動する。それは正しいかもしれない。ただその直観から行動に至るための知識は、洗脳のように植え付けられたばかりの青臭いもので、血肉にはなっていなかった。

 

  1998年、1999年の頃の日本のビジネスシーンでは、環境問題など金にならないとされ、どこかの宗教かと疑われた。日本における「オーガニックコスメ」というカタカナの言葉は日の目を見ておらず、はあ?なにそれ?というかんじ。学生時代の友人たちに話すと「オーガニックコスメ?地球環境にいい化粧品?ありえないよね」ときっぱり。北海道の僻地に住む母でさえ「環境にやさしいなんて儲からないっしょ」と断言する始末である。

 私のあの熱を帯びた行動に、夫や18歳来の友人たち、加えて母までもが冷めた視線を向けるのは当然のことだ。

 

 結婚して半年。

 妻が「オーガニックなライフスタイル」という新興宗教にはまり、新婚家庭は暗礁に乗り上げた。熱に浮かされ、直観でする行動を認めろと言い募る妻と、その妻をどうさとせば良いのか戸惑う夫と。

 夫は、埋められない溝を見ないことにした。休日は、家のゲーム部屋にひきこもり、ゲーム三昧をすることにしたのだ。平日はお風呂に入って寝るだけだから、これで妻と過ごさずに済む。

 朝と夜の通勤時間が、私に与えられた彼へのプレゼンの時間だった。

 地球と共生することの素晴らしさ、消費するだけの経済ではなく、包括的な見地から循環する経済の一つになること…云々。彼が納得するわけはなかった。所詮、知識からの言葉である。納得しようもない。

 妻と別れようと思っていたわけでもない夫は、とりあえず自分の安全な場所、妻から地球にやさしい生活提案の波状攻撃を受けないところを確保した。

 一方、私は、会社でも家でも「お前、頭がおかしいんじゃないの?」と理解を得られず、次第に消耗し、友人の家に避難した。別居したのだ。別居すると、彼が私に会おうとしてくれるために、かえって向き合って話す時間が取れた。

 

 寝食は別で、二人で会う時はアポイントを取る。そのような日々が続いた。

 仕事が終わった後で食事をしたり、日曜日に珈琲を飲んだり。別居する時よりも穏やかに向き合う時間を過ごすことになった。

 

 ある日、夫が腕に包帯を巻いてきた。首は黄色い汁が出ている。かゆそうだ。聞けば、医師から急性アトピー性皮膚炎という診断がくだされたという。 

 

 夫に、師匠とライターの女性とまったく同じ症状が出た。

   おかしい…。なぜ彼に?

 

 彼の平日は、三食、外食だ。朝はコンビニ、昼はランチセット、夜は接待かつき合いで飲む。その生活を十年余り続けている。半年前に私と結婚してからも、私も働いているためまったく変わっていなかったし、別居してからは、休日も外食かコンビニ弁当だろう。料理のできない人だった。

 日々使うトイレタリーが良質なものだからといってそこまで変わるものだろうか。

  

 もしかすると、食事も、コスメも関係ない…?

 

 もしかして、私が「このままの生活を続けていたら、病気になる。いまだって半病人みたいなもの。それを自覚していないだけ」という言葉が、彼の精神の深い部分に届いたか。

 やはり、別居中とはいえ夫婦。三々九度を交わし、互いの故郷と東京で三度も披露宴を執り行っただけのことはある。深いつながりがあるのか!?

 

 私は、嬉々として夫に表われた急性のアトピー性皮膚炎を受け容れ、ぜひ治そう、と彼に持ちかけた。ところが夫にしてみれば、「アトピー性皮膚炎を食べ物で治そう」という記事に着手した途端に、自分たちがアトピー性皮膚炎になってそれを治した、なんていう話は、マユツバもの。到底受け入れられない。

「仕事があるから、お前の言うようにやって、余計に酷くなったら困る」と言う。 これまで蓄積した毒があるなら、その総量がどれほどのものか分からない以上、彼曰くの「私のやり方」(自然食、粗食のことを指している)で、毒が一気に出て、人前に出られなかったら困る、と。

 

 そう話す彼のワイシャツのえりぐり、袖口が、彼の皮膚から染み出た体液で濡れている。彼は、皮膚科医に通い始め、ステロイド剤を塗り始めた。

 酷くはないけれど、なかなか良くはならない。

 彼の急性アトピー性皮膚炎は長引いた。少なくとも、師匠やライターの女性のようにみるみる悪くなり、みるみる良くなる、という治り方ではなかった。

 

 結婚して一年後、私たちは離婚届を提出した。

 彼の急性アトピー性皮膚炎の症状がその後どうなったのか。私はそれにつき合うことはできなかった。

  

 数年後、彼から呼び出される。

「新しい彼女ができたんよ。まずはお前に言っておかなければと思って」と言う。

 周囲からの信頼が厚い彼らしい。律儀なことだ。

 

 気づけば、彼の肌がきれいに治っている。

 彼の肌を治したのは、新しい彼女だった。

 

  (*)当時、ワインのソムリエの資格を取るのが、若い女性の間で流行っていた。特にスチュワーデスさん(「CA」ではまだない)に。日本にワインを普及した功績を評価される、とある百貨店のバイヤーである彼は、知識をそらんじることが、本当にワインを愛することではない。ブドウの品種、産地、生産者、味をそらんじること、資格を取って分かったつもりになること、ワインのエキスパートだと周囲に知らしめること。それらはすべてワインを愛することからかけ離れてしまうことだ。ワインをサービスすることは、ワインへの愛を分かち合うことではないだろうか。と話した。