聖なるコスメ、聖なる日常

美しくなるアイテム、コスメ。コスメから森羅万象をみつめます。

きれいになりたいという本音

    テレビや新聞、雑誌などの大手メディアは、オーガニックコスメを推せない。

 大手メーカーが、合成化学物質を限りなく混入させないと標榜する、消費者に約束するのは、どだい無理な話だ。大手メーカーに癒着していると、「オーガニックコスメ」はどうしても推せない。せいぜい同列より下に見えるように配慮しながら扱うのが精一杯。あとはひたすら無視を決め込む。

 反面、「きれいになりたい」という願いがある。

 コスメはきれいになるためのアイテム。きれいになるために買っているのに、きれいになるどころか、合成化学物質の毒が内臓に溜まるなんてたまったものではない。そうと腑に落ちれば、多少割高でも、良質なコスメを買う。

 多くの女性の本音はそういうものだ。

 仮に、自分や夫が、合成化学物質の恩恵を受けた産業で貨幣を得ようとも、関係はない。

 武器を製造する会社で生計を立てていても、子育てをしたり、休みには息抜きに自然が美しいところに行く。それと図式は同じ。

 矛盾はどこかで嫌な臭いを発する。内在する矛盾が発する臭いに気づかないふりをして、なんとか避けよう、ごまかそうとしても、いつか耐えきれなくなる。それをごまかしきれない時はやってくる。本当に価値があるもの、価値がないものはなんなのか。気づく時はいつかくる。

 なぜなら私たちは生命を有しているからだ。

 合成化学物質によって地球環境を汚して結果的に困るのは自分だ。自分の大切な子どもだ。

 「生きるために仕方ないの」という私たちの理屈が、生命を育むものか、阻害するものか。私たちの感覚が教えてくれる。

 たとえば武器を製造する夫の収入で、家事の傍ら環境保護を活動をする。どこか歪んでいると気づくのは、感覚が理性を誘導したから。 

 感覚による本音は、人間の美点であり、進化の鍵だ。

 

 コスメの実費は夫に秘密。というアンケート結果をとある専門誌が発表していたが、よく理解できる。

 公的なメディアが言えないこと。反面、「きれいになりたい」人が熱望している真理。

 1999年当時はまだネットのインフラがいまほど整ってはいなかった。 が、真理は、社会のインフラなどものともしない。

 

 

 

「オーガニックコスメ」

 1999年、「オーガニックコスメ」とは、象徴としての言葉だった。

 合成化学物質フリーで自然の素材を使ったコスメ。

 理想の概念だけを標榜しても埒(らち)が明かない。良心的に自然派のコスメをつくっているメーカーを紹介しよう、と探し出したのが、「オーガニックコスメ」という潮流の源だ。

 2016年現在。「オーガニックコスメ」とはなんぞや、という定義づけがすでになされている。

 象徴というのは曖昧模糊とし、つかみどころがない。乱暴な話をすれば、「オーガニックコスメ」と宣言すれば、それでOKということになる。だから定義づけが必要だ、という理屈なんだろうが、無意味だ。

 

 なぜ無意味か。

 

    そもそも化粧品は、きれいになるためのアイテムだ。

 きれいになるべく朝晩、せっせっと肌に塗っている。それがからだの深部にまで及び、ひいてはからだを害し、表層の皮膚に現れるとしたら?

 真相を腑に落せば、どんなコスメを選ぶかは明白だ。

 

    一方でその真相は、一人ひとりがつかみとらなければ意味がない。

 私たちが七歳からなじみの暗記教育さながらに、思考を停止して、ただ「オーガニックコスメ」の定義を丸呑みにしてなにかを判断するのは間違いだ。

    たとえば、「これは確かにパラベンが入っているけれど、処方が面白い。フェノキシエタノールやビタミンEなどでお茶を濁しているよりいいかも?」とか、「全成分表示には乳化剤にあたる成分がないけれど、この感触はどう考えても乳化剤が入っている」などという思索をすすめるにあたり、オーガニックコスメの定義は不要。かえって邪魔になることだろう。

  

   1999年夏から2003年1月まで、私は、『オーガニックコスメ』(NPOアイシスガイアネット著/双葉社)という本を出すプロジェクトの中枢にいた。それを辞すにあたり、すんなりと事は運ばなかった。そのためこれまでひっそりと仕事を受注し、名前をひた隠しにして食いつないできた。

 もう禊は終わっただろう。かれこれ13年が過ぎた。

 私はこのブログで、1999年からこれまでにプロフェッショナルとして培い、いまだ現在進行形のコスメ観を伝える。なにかしらお役に立てたら幸甚だ。

 もちろんこのブログで間違いや考察の相違があればぜひご意見を頂戴したい。それを好機にまた考察を深めていく。