聖なるコスメ、聖なる日常

美しくなるアイテム、コスメ。コスメから森羅万象をみつめます。

オーガニックコスメへの違和感

 2017年5月27日現在。

 私は、オーガニックコスメという言葉に違和感を覚える者だ。

 なぜだろう。

 少なくとも1998年12月からの数年は、なぜオーガニックコスメという言葉が浸透しないのかと歯がゆい思いをしていたというのに。

 

 宗教かと疑われたり、マクロビオティックをやって正しい食に興味がある人しか買わないとか、自然食品店とかにあるイケてない化粧品と見られていたし、(いまとなっては嘘のようだが、当時はマクロビオティックなどと呼ばれる食養生や、有機農法や自然農法などによる農産物は人気がなかった)「肌にトラブルを抱えるような弱い肌だからオーガニックコスメなん言うのよ、私なんか肌が丈夫だからなにを使っても大丈夫よ」と言われたことは一度ではなかった。「海外留学なさっていたんですか。オーガニックコスメってなんだかストイックなんですよね。オーガニックコスメが広がるのは、この日本では難しいと思いますよ」と某大手出版社の編集さんに言われたこともある。「オーガニックコスメってありえない。知ってる?化粧品って、靴磨きクリームを顔に塗るようなものなんだって。産業廃棄物をうまく二次利用してお金をもうける。そういう仕組みで成り立っているんだから採算が合わなくてムリだよ」とは、お父さんが商社の社長をしている子だ。

 

 どう?いまとなっては、オーガニックコスメという言葉がすっかり浸透したじゃない。

 という気持ちも確かにある。当時、「うちはオーガニックコスメではないんですよ。あなたのところには協力はするけれど、オーガニックコスメなんて宗教みたいに見られるのはごめんですよ」とため息混じりに言っていたある女性の経営者も、いまでは「うちはオーガニックコスメなんですよ」とうちは始めからそう宣言していたと胸を張る。オーガニックコスメという看板が、経営に良い影響をもたらしているのだ。

 

 もっと得意になっていいはずだ、せめて自分のなかでは。でもやはり、違和感が否めない。

 

 関東圏にいくつかの雑貨屋やカフェ、セレクトショップを持つオーナーさんに、あるコスメメーカーさんを紹介したことがある。その時のやりとりが脳裏をよぎる。

 そのオーナーさん、仮にTさんとしよう。Tさんは、大変真摯な方だ。「オーガニック」とか「地球にやさしい」ということに世間が価値を置くずっと前から、エコロジーでかつスタイリッシュなものを探していた。これから世の中はこう動くから、という皮算用で動いているのではない。自身が化学物質による地球環境への弊害をみつけ、その発見をただの知識にとどめなかった。親御さんの代からのキリスト教徒というのも起因しているだろう。知性と真心が溶けあい、表面に浮かぶ。Tさんは親から受け継いだショップを地球への負担をなるべく軽いものにする、という方針に転換した。

 当時は商売っ気のない会社だった。(今は時代が追いついた)会社は商売をする母体を意味するから、矛盾がある。その矛盾を経営者の理想で埋めている会社だった。オーナーのTさんは、上背があり、いつもオーガニックコットン生成りの布地の服を着ていた。すみずみまであくまで清潔で、いつもふうわりと風をまとうように服を纏(まと)い、どこか浮世離れしている風情もあった。忙しくて眉間に皺を寄せていることも多かったが、限られた時間のなかで、弱小の出版社に過ぎない私の話に耳を傾けてくれた。

 ある日、Tさんが、「オーガニックコスメで良いメーカーを知らないか」とおっしゃった。ショッピングモールへの出店に伴い、コスメを一緒に売るそうだ。そこで浮かんだのはA社だった。ほかのオーガニックコスメメーカーに比べて、バランスが取れている。それが理由だった。来客の動向で「こういうアイテムがつくれないか」とTさんが持ちかけても、すぐに対応できるフットワークがあり、化粧品の現実を知りながら、オーガニックコスメの理想形を理解する柔軟性もある。私はA社を推した。

 そこからの仔細は知らない。A社とうまくつき合っていると思っていた。

 ところが、「なぜA社を推薦したんですか」とTさんが息巻いてこちらに言って来られた。紹介して数年が経っていた。

 Tさん曰く、あの会社は、自分のことしか考えていない。「私がきれいになる」ということが大切で地球への配慮を欠いている。

 なにがもとでそうおっしゃっているのか。詰めることはしなかった。Fさんの指摘は、A社だけではない、私も含めた「オーガニックコスメ」や「自然派化粧品」と称して、安心・安全な化粧品を女性に売ろうとする人、すべてに向けられていた。私は、ぐうの音も出ないまま、ただその場をとりなすことに終始した。

 

 Tさんの憤りにふれてから十年余りが経つ。

 あの時にピンと来なかったものが、いまになって分かりかけている。

 「オーガニックコスメ」を象徴としての言葉に使い、女性たちに訴えながら、仕様はそうでもないコスメメーカー。

 うちはオーガニックコスメです、合成界面活性剤、合成増粘剤、合成香料、合成色素、パラベンなどの旧表示指定成分、すべてフリー。しかも原料は有機か野生です。それも第三者の認証を得ているんですよ、と「うちが本物のオーガニックコスメ」と高らかに宣言するコスメメーカー。

 どちらも動機は変わらない。いや。動機でいけば、「こうすれば女性に売れる」という皮算用がない分だけ、前者の方が純粋だ。

 さらに、そのオーガニックコスメを使うとする女性たちが、続々と「きれいな私」として登場し、「うちのオーガニックコスメを使うときれいになりますよ」という立証をするための演出をしている。これもTさんからすれば真面目さを欠いていることになるだろう。

  日本における女性の「きれい」は、あくまで男性目線でしかない。肌が美しいだけなら、同じオフィスフロアに一人や二人はいるだろう。単なるイメージ戦略で押しまくるジャンクコスメの宣伝方法を、オーガニックコスメに転化していること自体、そのオーガニックコスメはまがいものということになってしまう。

 オーガニックコスメってそんなものか。

 地球への負担をいかにかけないか。どうしたら地球と共生できるのか。それと矛盾しない企業活動をいかに続けられるのか。それを追求せずして、なにがオーガニックですか。

 Tさんの憤りを、すぐに解消できずにいた。いまはできるのか? どうだろうか。Tさんの憤りを理解するにとどまっている。

 

 多種多様ないのちを、のびやかないのちの営みを寿ぐ。女性が使うコスメとはそういうものではないのですか。

 Tさんの憤りには、その奥底に悲鳴にも似た思いがあったのではないだろうか。

 

 オーガニックコスメ、自然派化粧品、無添加化粧品。

 日々のスキンケア選びに、女性は、より自然に近い基礎化粧品に興味を抱く。抱くはずだ、と化粧品会社も誘う。女性と化粧品会社。両者が期せずしてそこに価値観の転換が起こる。

 刹那の美しさになら、ジャンクなコスメで十分だ。

 「永遠の美しさを実現したい」

 大古からの悲願を揺らめかせた途端、自然の営みをみつめざるをえなくなる。みつめるうちに、遅かれ早かれ、自分も自然の営みの一つであると自覚するようになる。ほかのいのちを阻害するような営みは、自分のいのちを阻害することにほかならない。と、いつしか気づく。

 永遠には叡智が息づく。

 マハトマ・ガンジーは、どんな小さないのちも殺害しなかった。部屋に入ってきた蠍もそっと戸外に追いやったのだ。その行為を褒められると、「私のすべての行為は自己実現にほかならない」と答えた。

 目の前の蠍と自分。いのちは同じ重さであり、相手のいのちはまた、私のいのちでもある。

 叡智は愛の香りを放つ。

 より自然に近いコスメに女性が惹かれるのは、その奥に、愛の香りを嗅ぎ取るからではないだろうか。

 一度、愛の香りにふれると、そうではないものが簡単に分かってしまう。

 Tさんは、オーガニックコスメという概念に愛の香りを感じたからこそ、愛の香りを発しないものに憤りを感じた。 

 

 「オーガニックコスメ」という象徴としての言葉は、そろそろ不要になるだろう。きちんと向き合うと、意味を成していないという実態が明らかだ。